こんにちは、いつもありがとうございます。すっかり春めいたバーミンガムの暑さにびっくりしているおはなうえるくま1号です。
上の画像の花木、プルヌス(サクラ属)の何かかと思いますが満開で美しい景観を作っております。
おそらく、この品種かな
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写真が教えてくれる景観の美しさ
大聖堂を背景に咲くプルヌス。この撮影をしっかり構図を決めてフォーカス(ピント)をいじっていたら周りにいた他のおじさん、おばさんが「Ohhh, beautifull ,,,,」って言って同じアングルで写真を撮影する人が増えました。
僕は、ライカのレンズを使っているから時間がかかってしまうのですが。そのことによって、周りに人が集まって同じ写真を撮る。
その現象が面白く思います。
バーミンガムで初めて体感したのではなくて、先日出発前に行った京都でも同じ現象が起きました。
世の中にはたくさんの方の素晴らしい写真が溢れていて。同じ瞬間を撮影したく旅行される方が多いと聞きます。
僕自身も、写真集でみる絶景に心が踊り、「いつかは行きたい」場所があります。
また、見慣れた場所のすごい写真を観ると「こんな視点もあったんだな」って感じますよね。
この写真を一緒に撮ったおじさん、おばさんももしかしたら近所の人だったかもしれません。それは確認する方法がないのですが。
予想された景観かは別として
なので、この景観が予想されていたのか、いなったのか。
それとも「たまたま」なのかはこの小さな大聖堂の設計した人の仕事でもなくて、ランドスケープデザイナーの仕事でもなくガーデンデザイナーの仕事でもないのかもしれません。
僕たち、何かしらの設計者は。人々が気がつかない部分もかなり設計しているものですが。設計してから10年も時間が経過すれば、それはもう使っている人のデザインになってきます。日々変化していくのだと思います。
それは、心理的に設計者、デザイナーの手を離れていくこともありますが。それを使う人々の思いがこもっていき素晴らしいものへと変化していくのかもしれません。
「デザインや設計というものは、そういうものなのかな」と最近思えるようになってきました。これが今後自分が、どのように気持ちのや思想の変化が起こってくるのかはわかりません。考えは日々、変化していっていいものと思っています。
この大聖堂はこの街の、このエリアのシンボルにもなっているものですから人々に愛されて出来上がった景観なのです。
この大聖堂だけではなくて僕は、いろいろな場所に行くたびにそう思います。
この場合は大聖堂なので、宗教的な意味合いもあるでしょう。ですが街のシンボルが何であろうとも年月とともに、人々の気持ちに入り込んで、それが染み込んで愛着が湧くものです。
もちろん比較的、新しく出来たシンボルにとっては反対派の方もいます。
でも世代を超えるものは、大概にして心の景観に染み込んでいることでしょう。
エッフェル塔、東京タワー、五重の塔、などなど。他にもたくさんあります。
僕自身も、北海道で育っているのでシンボリックなものには反応してしまいます。
そこに楽しい思い出が含まれていると、より美しい景観として心に残るのではないでしょうか。
イギリス人も花見をしていた
話は変わって、僕が感じたのはイギリス人も花見をすること。
それがサクラの下なのかは問題ではなくて。現に日本人もサクラから遠い場所にシートを敷いて花見と言って食べて飲んでをしています。
その大聖堂の芝生広場はこんなにみんなが座ってお茶を飲んだり食べたりしています(お酒は飲んでいません)。
しかも、先のプルヌスの下に多くの人が座っています。
日本のサクラの名所に多いのが神社、こちらは大聖堂。
「なんか似ている」
空気感を感じました。建築系の専門用語ならアトモスフィアや、ゲニウス・ロキ。ジーナス・ローカイの部分です。
木に寄り添うヒト
ここでわかるのは日焼けしたい人以外は、木のそばに固まっていることです。
こればかりは、人種、宗教の枠を離れてみんなが行動してしまう現象です。それをなぜかと書いた文章を、20年も前に読んだ記憶がありますが、簡単にいうと猿のDNA的に刻まれた心理現象で、木のそば、木の上が安全と思う感覚と言っている人もいました。
これにはちゃんとしたエビデンスのある話ではなくて。
こうではないか?と言った話です。
なぜ人は、古くから都市に機能的には不必要な木を植えてきたのか。
そこの答えがあるかもしれません。
木に花がさき心地よい風が吹く時期に、楽しい思い出を作るのかもしれません。
今回は、そんなところで。
したっけ!